2009.2.27

私が子供の頃の「加藤」といえば、加藤茶さんしかいなかった。
思い返せばドリフ全盛期。
当然の事ながら「かとちゃんぺっ」と、
二本の指を鼻の下にくっつけ、からかわれた。
だけど「高木」っていう名字でない事に一抹の救いを感じはしたが、
「加藤」という名字が大嫌いだった。
だって……スマートなイメージなんて全く無かったもん!

それが、である。
最近「加藤」が頑張っている。
まあ、そりゃそうだよね、
日本で確実に五本の指に入るくらい多い名字なんだもん。
しかも、ここ何年かの「加藤」の頑張りっぷりは輝かしい!
いくらアカデミー賞の受賞式で「ケイトー」と呼ばれても、
それは「加藤」なのである!

外国で生まれ、東京で育ち、
チリやメキシコといった国で何年か過ごした者として、
「同郷」という地理的なものに対する誼み感覚は全く無い。
でも「加藤」にはその誼みが存在するのである。
おそらくその理由は、上に挙げた幼少期の傷に対する
同じ「加藤」としての同情だろうと思う(そんなに大げさか?!)。
だから他人の偉業ながら、自分の事の様に喜んでしまうのである。
だって、かつてキング牧師に多くの人々が賛同し、
アフリカ系アメリカ人が公民権を得ていった様に、
「加藤」の偉業の数々は、確実に「加藤」のイメージを上げてゆくからである!

と、熱弁をふるってはみても、
「おのれはどうなんだい?』と問われれば、
まあ、ぐうの音も出ないんですけどね……。